死を考えて生を思う
いつも薬機法などいろいろと考えて書いてたり、書けなくなったり、うっかり書いて消したりしているのですが、肩の力をぬいて、散文スタイルで書いてみようと思います。
今日は死について考えていました。
なにかがあったわけではありませんが、仕事柄、その言葉を聞くことはたまにあります。
私事になりますが、過去に一回、死ぬタイミングを逃してしまった!と思ったことがあります。
変な話ですが、ちょうど東日本大震災があり、福島の原発から放射能が漏れ、汚染だ汚染だと世の中が騒いでいた時です。
みんな生きようとしているのに、ひとりだけ違うベクトルへ心が向いていて、こんな短歌を詠みました。
「汚染だ、汚染だ」騒ぐ声する死ねるとう恩恵を取りこぼした耳に
死ねるとう=死ねるという という意味
(はじめて紹介した自作短歌が暗い!今後公開していきます)
別に死にたかったわけではないのです。
死ぬのは怖いけれども、日本に生まれただけで思いがけず生きてしまった、というところでしょうか。
詳しい心情は忘れましたが、そんな空虚なことを繰り返し考えていましたね。
助かった!生きよう!ではなく、ベルトコンベアの治療に乗っかって、たまたま生き延びただけの自分がここにいたのです。
今日は死ぬのに一番いい日。(アメリカインディアンのことわざより)
願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃 (西行の和歌)
死について書かれた芳醇な詩。
聖書にもいい言葉がありますが、複雑になるので控えます。
今はこんな風に死を迎えるために、生きれたらと憧れています。
生きているものすべてが、わたしと調和している
すべての声が、わたしと歌をうたっている
すべての美が、わたしの目の中で休もうとして来る
すべての悪い考えは、立ち去っていった
今日は死ぬのにとてもいい日だ
わたしの大地は、わたしを穏やかに取り囲んでいる
畑には、最後の鍬を入れてしまった
わたしの家は、笑い声に満ちている
家に子供たちが帰ってきた
うん。今日は死ぬのにとてもいい日だ
(プエブロ・インディアンと生活するナンシー・ウッドの詩より引用)
人はみなパラドックスで、死にたいと生きたい、生きたいと死にたいを抱き合わせているように思います。
たぶん死にたいは生きたいの反転形で、生きよう、生きたいがその奥に隠れています。
そんな衝突がいくらか落ち着いてきたり、肉親や近くの人が亡くなると、生きると死ぬの境界線が薄まって感じられますが
それは頭で捉える死であって、現実になったらがたがたと慌てるでしょうね。
だからこそ
私たちは生き延びるために、働いたり、学んだり、闘病したり、頑張っています。
その中に生きる輝きがありたい、それは自己満足のような小さなもので十分に足ります。
これは人が生きる中で、なによりも大切にしたいことです。
***追記***
ひさびさに思い出した言葉。若い時にこういうの好きでした。
メメント・モリ(Memento mori) 死を記憶せよ
カルペ・ディエム(carpe diem) その日を摘め (その日を生きる)
逆のようですが、「死(終わり)があるからこそ、今を(一日一日を)大切に生きる」というふうに、意味的に補完し合っているともいえるでしょう。
お花のようにその日を摘むって素敵な言葉ですね。
満開でも枯れた花でも花は花。枯れてゆくパワーだってものすごい。どんな中にも見るべきものはあります。