うすさの中にある深さ――短歌と施術のあいだで

わたしは施術のとき、レイキの練習会でも同じでも、あまり説明をしません。
世の中では、科学的に説明する人がたくさんいます。
どこに作用するのか。
なぜ変化が起きるのか。
どんな理論にもとづいているのか。
それらはわかりやすく、安心感もあり、初めての人にとってはとても親切です。

薬機法を守る必要や、選んだ施術が説明しにくこともはじまりにあるのですが、
気が付いたときには、自分が選んだ姿勢となりました。
なぜそういう姿勢を選んだのか、すこしお話したいと思います。

説明は理解を助けるが、体験を平らにすることがある

説明をしてもらうと、「理解」を助けます。
分かった気がして、満足感がありますよね。
けれど同時に、体験を一定の形に固定してしまうことがあります。
「ここがこうなる」
「これはこういう反応です」
そう言われた瞬間、人は無意識に「正解の変化」を探しはじめるそうです。
すると、本来その人の中で起こるはずだった微細な感覚や、予想外の変化が、気づかれないまま通り過ぎてしまうことがあります。

わたしが扱っている施術は、派手な変化よりも、静かな調整がその先で起こるもの。
自分で感じてもらいたいからこそ、言葉で囲いすぎないほうがいいと感じています。

誰でも入れる場所を残すために

説明を控えるのは、誰でも入れる場所を残したいからというのもあります。
説明が多いと、「理解できる人」だけが入ってきます。
でも、
疲れている人
考える余裕のない人
言葉より先に身体が反応する人
そういう人たちにとって、説明は負担になることがあります。
「わからなくても、いていい」
という場所をつくることでもあります。

経験上、いいと言えば言うほど、より怪しく思われるということもありました(笑)

短歌をつくるやり方は、施術そのもの

短歌をつくるなかで培ってきた感覚は、施術の在り方とよく似ています。
何をされているのか(言っているのか)、よくわからない。
でも、終わってみると、なにかが違う。
説明されないぶん、自分の感覚に集中できる。

強く導かない。
答えを先に渡さない。
変化を決めつけない。
その人の中で起こることを、その人のペースで起こしてもらうのが一番おもしろい。
短歌を詠むとき、言葉を削ぎ落として余白をつくるのとよく似ています。

説明しないのは、信頼しているから

客観的に見れば、わたしは効率のいい伝え方を選んでいないかもしれません。
それでもこれを続けているのは、そこでしか起こらない変化を、何度も見てきたからです。
説明をやめたとき。
期待や理解をいったん手放したとき。
そのとき、身体や心はとても正直に、自分のリズムを取り戻していきます。

説明しないという選択は、突き放すことではありません。
「あなたの身体は、あなた自身で感じ取れる」
そう信頼している、という態度の表明なのです。

それは、かつて恩師がわたしにしてくれたことなのですよ。

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